タンナーさん訪問の後で考えたこと 2
2012-12-13
前回からのつづき。
だからといって、何ごともその場しのぎでやるのではなく、その時々でより良いものを目指して作りたいと思うのです。
「モノづくり」といっても色々ありますが、
今やっているカバンづくりの面白いところは、まずは道具として使うための機能性を盛り込み、さらに素材の特徴と技を組み合わせてカタチをつくっていく、というところです。
単にモノを作ることにおいては、まず素材の扱いを知ることが必要で、その素材の長所と欠点を知るところからものづくりが始まるわけです。
これまでの縁が繋がって、自分たちは主に革という素材に関わっていますが、その魅力は知れば知るほど味わい深いものだと思っています。
革がなぜ長きにわたり愛され続けているのか。
古くから伝わるものには、それぞれその土地や文化と何かしらのかかわりがあるものです。
モノをつくることから、ものの成り立ちを知ることへとつながり、それらはものの流通や消費とも深く関わっているので、その巡りはおのずと自らの行動へと帰着します。
何かものを買う時に、生産地を見てみます。
日本製だと嬉しい。
けれどその原料は?
加工品は、消費者が原料の産地までを知ることは難しい。
国産牛革の原皮がほとんど外国産だということは、一般には知られていないでしょう。
国産牛は脂身が多いため、革として使うには適していなかったり、不具合があるからだそうです。
現在、革の多くは外国産の原皮で製造されています。
(豚革は原皮も国産で、輸出もしているそうです。)
ヌイトメルで使っている鹿革の原皮も外国産とのことです。
日本で鹿革は古くから武具などに使われていて、その歴史は長いそうです。
なぜ鹿革が国産原皮でないのか疑問に思っていたところ、最近偶然に、獣害対策をされているかたから事情の一部を聞くことができました。
かつての日本では牛は貴重品でしたから牛肉を食べる習慣などなく、鹿やイノシシのほうが一般的だったといいます。
国産鹿の皮質についてはそれほどの問題はなく、ただ、日本で原皮をつくるとコストがかかるのだと。
鹿革の「革をつくるための皮を剥ぐ」という分野が国内で確立されなかったのは、そもそもは食べる習慣がなかった日本で“肉”を食べるようになった近代、おそらく食肉として主流にならなかったために、安定的に原皮が供給されないからなのかと想像しています。
産業として成り立つためにはそれなりの効率性が優先されるでしょうし、非効率なものはコストが高くなり、高いものは不要となる。
そして、その考え方でつくられた現代社会の色々なひずみは巡り巡って、
例えば山が荒れ、山を追われた鹿や猪、熊の問題が深刻となっていきます。
誤解を避けたいのですが、外国産のものを否定しているのでなく、革の産業を批判しているのでもありません。
全てのものが国内産でなければならないとも思いませんが、日頃ちょっとしたことから、連鎖的におかしいなぁと感じることが多いのです。
なぜ気が付いたら、何かにつけ日本中が輸入に頼らなければ成り立たない産業ばかりになってしまったのでしょう。
輸送コストがかかるのに、外国産のもののほうが安い、その理由はよく知られている通りです。
そうやって富を世界中に分配するほうがいいという考えや、これからもっと世界を相手に商売をしなければ日本はやっていけないという人がいます。
けれど、これまでと同じような方法で利益を求めるやりかたでは、いずれ行き渡ったその富は世界中で天然資源の浪費に使われるのでしょう。
そもそもこの地球には、掻き立てられつづける消費欲を満たすほどの資源はないのでしょうけれど。
ほぼ毎日まる一日を共に過ごす夫婦として、
仕事をしながらも話す内容はそれ以外のことまで膨らんでいき、
わたしたちは、ものが与える影響と、その背景に潜む何かまでを想像することが習慣になりつつあります。
買い物をする時に、その製品のクオリティレベルを云々いうよりも、
作っている人の、その暮らしまでを考えてみて、より近いと思えるものを選ぶようにする。
いちいち考えすぎかもしれませんが、自分が社会とつながっているんだと実感する瞬間です。
時と場合によってはできないこともありますが、その割合を増やしていきたいと思っています。
昨年から色々な場所を訪れる機会があり、いろいろな人と話をして刺激を受けたり、共感したりして、自分たちの考え方やものづくりにも影響を受けています。
そして、前にも書きましたが、度々、この演説を思い出しています。
少しずつでも、行動すること。
今、それが大事だと考えている、今日この頃です。