「平和」を考える

2014-8-10

平和ということばの反対は、なんでしょう。
誰かは「戦争」といいます。
誰かは「無秩序」といいます。

「平和」というのは状態を表すことばなので、「混乱・混沌」というのがしっくりくるような気がしますが、
平和という状態も定義がなければ曖昧なので、
個々それぞれに「平和」という状態の認識があるのかな、と思います。

なんでこんなことをいうのかというと、今は平和なのかな、と考えるからです。
地域を限定して、その地域が「戦争じゃない状態」を平和というのなら、
今のこのあたりは平和なんだろうけれど。

8月。
毎年、私も平和について改めて考える時期なのです。
わが子にどうやって平和という概念を伝えるのか、というのがこのところの私の課題です。
広島、長崎を伝えること。
戦争の悲惨を伝えること。
現在がどれほど幸せな生活なのかを伝えること。
どれもこれも、子どもにとってピンとこなければ、心に響かないのかもしれません。

終戦後69年が過ぎる今、戦争を体験した世代が日本に少なくなり、
後世に戦争をどう伝えるかが課題になっているようです。
直接に戦争体験を聞くこと、戦争を身近に感じることを第一歩にして、
現代の人が過去の戦争に興味をもつ努力が必要とされています。
そう、意識し努力しなければ、興味をもつことさえできないのです。

昭和生まれはまだ第2次世界大戦、太平洋戦争は身近に感じられたかもしれません。
でも、自虐史観ということばや、洗脳ということば、
ナショナルな主張がそこかしこで目立つこのごろ、
特に反戦教育を受けている私と同世代にもそういった言葉が飛び交っている様は、
あの時代を多面的に見ようとしているのか、逆の一方向からしか見ないようにしようとしているのか、
よくわからない事態になってきているように感じます。
アイデンティティを国家や歴史、ルーツに求めようとするのかもしれません。

いずれにせよ戦後の教育のありかたを、改めて問うべきでないのかと思うのです。
そのうえでこれからの反戦・平和教育をしていかなければ、
これからの子どもたちからは、あの時代がますます遠いものになってしまう。
 
 
昨年、映画「ハンナ・アーレント」が話題になっていました。
ひとりのナチスの戦犯を裁く裁判を傍聴し、記録したドイツ系ユダヤ人の哲学者、ハンナ・アーレント。
アイヒマンというひとりの人間が、なぜ非道な任務をこなすことができたのかという、
人間としてひとりひとりが自覚すべき「凡庸な悪」について追求した一人の女性を描いた物語です。

わたしもあなたもアイヒマンになる可能性がある、という彼女の視点は、
時を越えて、いつの時代もわたしたちが最も持っておく必要がある視点だと思います。

 参考サイト : http://www.cetera.co.jp/h_arendt/

          http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37699

 

加害する側、被害を受ける側にも、それぞれ何かしらの考えや動き、それに至る必然性があるはず。
(必然性に関しては例外もありますが。)
人を殺すという行為を遂行するには、直接手をくだす加害側にもそれ相応のダメージがあります。
そのダメージを軽減させるために麻薬(覚せい剤)が使われていたという事実は今、公には学べません。
私たちは、いつでも加害者になる可能性が否定できない。
すでに何かしらのつながりで、加害者になっているかもしれない。
人間性というのは、人権とおなじく
それを常に保つ努力をしないと簡単になくなってしまう危ういものだと自覚したい。
そのうえで、被害者側の視点とともに加害する側の視点と心理を一緒に考えていくことが、
これからの反戦教育に必要なのではないかと考えています。
どちらかに偏ることのないように、
また、ゲームを動かす支配者然とした視点ではなく、
つねに現場のリアリティをもった感じ方、考え方ができる人間性が育つよう。
戦争を拡大させるのも、戦争をしないと決めるのも人間ですから。

大事なのは、つきなみですが、「対話」です。
反対意見を共感しようとする感受性もまた、対話には必要だと思います。

秩序正しい状態が全ての人にとって平和だとは思えないから、
無秩序の反対が平和というのも、違うんじゃないかなと思います。
自虐という言葉にも、自分を被害者ととらえた視点が目立つように思えてならない。
「平和」な状態の反対は、個々の人間性が保たれない状態を指すのではなかろうか。
 
 
ただ、ひとつ譲れないこと。
できるだけ善悪だけで物事を考えたくないですが、
核兵器に限らず、人の殺傷目的で作られる兵器は全て「悪」だとわたしは思います。
 
 
(アツコ)

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