でも、デモ、でも、

2011-9-12

昨日は、「原発ハヨトメロデモ in 大阪」へ家族で行ってきました。

ブログにこういうことを書くのは偏るからやめた方がいいのかな、とも思いましたが、そんなことは気にしないことにしました。

ちなみに、ヒステリーではないです。冷静です。
デモが直接有効な手段でないことも、わかっています。
デモが少なからず、周囲に迷惑をかけることも。
ですから、多少申し訳ないな、という気持ちでした。

今回は、ビラ配りという目的がありました。
前にも書きました、「原発国民投票」のビラです。

「原発国民投票」に関しては、推進派・反対派、また他の問題も絡んでいますので、賛否両論出ています。
そして、実現の可能性も今は薄く思えます。
この活動に、盲目的にのめり込んでいるわけでもありません。

けれども、このことについて考えるために情報を集めれば集めるほど、これまで知らなかったこと、付随する問題がたくさん見えてきました。
そして3.11までは忙しさを理由に政治にほぼ“無関心”状態であったことが恥ずかしく思われました。
 
 
デモ前に、大阪へ自主避難されている女性がマイクをもって涙ぐみながら話されていたことが、人ごととは思えませんでした。
この春お子さんの小学校入学を機に茨城のご実家近くに移り住む予定で、お父さんと畑仕事をすることを楽しみにされていたのに、それらを全て諦め、知り合いのつてで大阪へ越してこられたこと。そしてそれらが叶わぬ夢となってしまったこと。
そして逃げてきたという後ろめたさ、このような地域を他につくってはならないとの思いも。

福島、その近辺、さらには関東在住の母親(ここではあえて)は、毎日どれほどのストレスを抱えて生活をされているのでしょう。
気にし過ぎてもしょうがない、けれど、気になる人は気になるし、そもそもそのストレスの発端はその人のせいでもない。
他の人がマスクをしないからといって、汚染が心配されている地域でも人の目が気になってマスクができない。
原発事故のせいで家庭が崩壊してしまったという記事も度々目にします。
放射能を気にし過ぎなのか?これって、ヒステリー?
 
 
明日は我が身、ではなく、すでに我が身に降りかかっていることです。
諦めて放っておけば、汚染は瓦礫や食品を通じて全国へ拡散することでしょう。
今まで黙認しておいて、今更声を上げるのは恥ずかしいことなのでしょうか?

稼働や建設が止まっている原発も、これまでの現地での地道な反対運動のおかげです。
人ごとではなく、消費地の人間が我がこととして考えなければ無責任だと思うのです。

電力のない生活は考えられません。
でも私は、そもそも電力はどれだけ必要で、どれだけが火力で供給できるのか、また原発や他の自然エネルギーが起こしている環境破壊や採算性についても、不勉強すぎました。
火力でCO2が・・・という話は、地球温暖化が・・・という問題(これにも多説あるようです)が絡んでくるので、その辺も後で一緒に考えるとして、今考えるのは危険を冒してまで原発を動かす価値があるのかどうか、という問題です。

知らなかった、で済まないことが、たくさんあるような気がします。
放射能に身体が慣れる、ということは決してないのです。
放射能はDNAを傷つけるからです。
そして、それは発達途中の子供に大きな打撃を与えます。
借りに、それで人類が進化するとしても、そのためにどれだけの犠牲が伴う?
そもそも、低レベルの放射能を浴び続けることが人体にどういう影響を与えて、どうなるのかもほとんどわかっていないそうです。
わからないから憶測も誤報もたくさんありそうです。
そして正しい情報は、必ずしも国から得られるようではなさそうです。
 
 
どう判断し行動するか、それはひとりひとりが考えることで、ブームに乗ることでも、強制することでもないです。
けれど国民投票なら、自分の考えが1票という行動となります。
 
 
大阪市立住まい情報センターで、10月30日(日)に勉強会があります。

「国会議員と考える「原発」国民投票~歴史の1ページを作ろう!~」

託児・手話も必要であれば用意してもらえるようです。
興味のあるかたは、ぜひお問い合わせ、予約をしてみてください。
(保育・手話の予約は10/20まで)

  kt1023@hotmail.co.jp
 
 
推進も反対も中立も、私のようによくわからない人も、もっと議論して考えたらいいのです。
そして一歩前へ踏み出すことが大切だと思います。


 
 
シンプルに。

原発は人が動かしている。
人は、間違いや失敗を犯す(すでに犯した)。
日本は地震大国。
電力は原発がなくてもまかなえる。

そのうえでわたしは、原発はいらない、と言います。

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