2022年になりました

2022-1-3

あっという間に新年になりました。

毎年餅つき機でお餅をつき、お節をつくる母。

今回のお餅は玄米から精米してついたので、茶色い点々がすこし入っているのが愛らしい。

(超アナログな餅つき機は貰い物のうえ多分25年以上使い続けているのに今も健在)

その横で掃除と用意と段取り手伝いは、毎年の年末年始恒例の仕事で

ひと通り終わってからひと息ついて、元旦から年賀状にとりかかるのが私のお正月。

今年は中3の受験生がいるので、とりあえず受験が終わるまでは気持ちも落ち着かず

息子の進路の行方次第で春からの生活が全く違うので、まだ今は宙ぶらりんの状態です。

年々時間の経過が早く感じてしまうのは歳のせいだろうけど

天然とは違う種類のうっかりがますます増えたような・・・

昔のように仕事がこなせなくなってきたような気がするし

更年期一歩手前?という微妙な年齢なので

少しずつメンテナンスもしていかないとなぁ・・・

 

秋に4年前から毎日乗っていた電動自転車がついに壊れ

近くの自転車屋さんで見つけた中古自転車に乗り換えました。

近年は毎日の通勤で植物を愛でつつ、めぐる季節を意識的に感じています。

池の水面に映る木々を見下ろせる道、街路樹が植えられた歩道、公園の脇の土手

芽吹きの色合いと野の花が少しずつうつり変わっていく春

ムラサキツメクサ、ドクダミ、ヒメジオン、ツユクサ、エリゲロン、アザミ

夏になるとツタが伸びて歩道が覆われ、蝉の鳴き声も気温とともに移り替わり

コスモス、アキノノゲシ、ヒメツルソバ

秋には青々と茂るナンキンハゼの葉っぱの間からコロコロとした緑の実が見えだし

紅葉と落葉の後に残る白い種が綺麗で

道端の水仙が咲きだすとまた冬になったなぁって

一年すぎるのが本当に早いのだけど、普段通りの毎日を慈しみ

このまま歳を重ね、やがて無にかえってゆくことが普通にできればこの上なく

ただ淡々と時が過ぎていけばいいのになぁ。

先の見えない時代を生きていて、これまでと同じ生活がこれから先も延々続くとは思えなくて

パラダイムシフトなんてきっと起こらないし、焼け石に水とか自業自得とかを噛みしめ

まさかのパンデミックを知ってしまったので、次に何かおこったときにはもう驚かない気がする。

今でいう普通の幸せって、実のところ先人たちの失敗や努力とまわってきた偶然とで味わえているもの。

おこぼれでまぁまぁの幸せを享受できていた時代は終わりを迎えようとしているかもしれないし

惰性の世代の自分が人生100年時代を実現できるって思えないけど

まだその半分も生きられていないのにこんな悲観的になってていいのか!とも思う。

第二次アヘン戦争だという10年前の動画を見て納得して

それから10年後の今もまだその只中なんだけど、無策に小さく足掻くしかなく

ご都合主義の自覚があるだけまだましだと言い訳して

どんなかたちであれ生き続けることが幸せなのか

最期を自分自身で選べることが幸せなのか

生きているとか死ぬとかいう死生観の哲学的考察には答えがないので、今この話はとりあえず棚上げしておこう。

日本が開戦に突き進んだのは民衆がそれを望んだからだと歴史が教えてくれていて

誇りだとか陰謀だとか罠だとか政治のせいだとか

いずれにしてもことばの主語が大きくなり神目線になっていくSNSも怖くて

妄想と冷静と真実と錯覚と神の声と

自分は目覚めたのだと錯覚する伝道者も、本物のレジスタンスもまがいものの善人も

実際に会って対話をしてみないことには私は何も感じとれない。

「まとも」っていう境界線はとても曖昧で、脳の認識は危ういもの。

病なのかそうでないのか、だれが何をもってその線を引くのか。

 

とにかく人類の業を背負うことになった現代を生きるひとは

宇宙と地球の時間軸でいうと一瞬の時間をただ通り過ぎることしかできないのだけど

せっかく今ここにいるのだから、人との関わりを味わい、人の気持ちや建設的な営みを大切に思い

できることを誠実に続けて、良い思い出を重ねて

その思い出を財産として人生の最期に思い出せたらいいなと思う。

そのために私は「私」を主語にして

そのときの選択を自分にとって最善のものにするっていうのが、私の生きかたなのだと

こうやって記すのも、今考えていることを文章にして残しておきたいからで

この超個人的な考えをオフィシャルにも公開しているのが良いのかどうかわからないけど

特定の個人に対する誹謗中傷でなかったらいいと解釈しているので

具体的な体験を書くのは自分の家族にとどめておこうと思っています。

 

夏ごろからヒップホップとラップ漬けの息子たちで

文学への入口がラップというのって今っぽいなと感じています。

そういえばお経も短歌もラップみたいなもので

ことばに変換された感情や情景を味わう楽しみを知った息子が

今をどのように感じ、これからどのように生きていくのか楽しみです。

ラップで詩的な表現に共感したりエモいって感想が湧いてくる様子を見ると

国語の教科書にのる文学や古文で表現されている感情もきっと普遍的なものだろうけど

現代の子が味わうには時代が遠すぎて実感がわかず、無意味な暗記がそれに拍車をかけ

感じ方にマルバツを付けられることへの疑問さえも不正解とされ

国語はただの退屈なお勉強になってしまうんだろうな、と感じたりします。

興味や共感というのは体験を経て気づき湧き出るものだというのは子どもを通してわかるし

どんなことも近くに引き寄せることから主体性がうまれるのだし

主体性というのが何かにつけ鍵になるのだと、実感としてそう感じています。

 

今年は中学生になる次男の冒険がはじまるので

私もそれに便乗して未知の世界へ連れてってもらうのを楽しみにしています。

その具体的な体験は、また春を過ぎたころに・・・

 

(アツコ)

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